『暗黒舞踏』って何だ
ねえねえ、君君。君って暗黒舞踏って知っている?知らないか…。君、今幾つ?80年代のPARCOのテレビコマーシャルでさ、頭は剃髪、全身白塗り、フンドシ一丁で足首にロープを括られて吊るされている人が映っているのを覚えてない?覚えていないか…。だよね。アートに興味が少ないどころか、アングラって言葉すらも知らないだろうなあ。
アングラって言うのは「アンダーグラウンド=土の下」っていう意味で、著名で金儲けが上手いけど薄っぺらいアートに対して、真摯に時代と自己に向き合い、穢いところも綺麗なところも共に人間の持ち味なのだと、人間を深く考えているアーティストが創作する作品のこと。醜いところも曝すので、猥褻罪で本当に捕まっていたりする。
しかし、決して犯罪者の集団ではない。それにしても「犯罪」って何だろう。悪いこと、人に迷惑をかけること、人を陥れることが主な犯罪だろうが、時代によって犯罪は変化する。戦争時は敵国の殺人が美徳だった。最近は更に、喫煙が犯罪者扱いされている。支配者の悪事を暴き、世の人に知らしめることは支配者にとって犯罪だ。
アングラのアーティスト達は、確かに反体制の者達が多かった。しかし国家を転覆させようとするのではなく、国家をよくしようとしていたにも関わらず、公務執行妨害で逮捕されていった。芸術の世界は主に1950年代からそのような活動をしていたアーティストは前衛=アヴァンギャルド、オリンピック、万博などの60年代は、アングラと呼ばれた。
アングラアートと言えば、ゼロ次元の儀式、寺山修司の不条理演劇、宮井陸郎の実験映画、ネオダダの前衛美術、倉橋由美子の文学、頭脳警察のロック、ガロの漫画などを思い浮かべるといいし、知らなければ調べて欲しい。暗黒舞踏は1950年代の前衛の洗礼を受け、1959年に土方巽が《禁色》という作品を発表して始まったと言われている。
そもそも『暗黒舞踏』って何だ?洋館で社交ダンスを始めたのは、文明開化の明治時代だっけ?それと関係あるの?確かに関係あります。「暗黒舞踏」は今日にも行われているにも関わらず、日本で発祥したのに日本では無視をされ忘れ去れていて、むしろ海外で研究されている。「暗黒舞踏」で博士論文を修得している研究者が多々居る。一体ナゼ。
1959年から始まった「暗黒舞踏」に対する当時の優れた研究者、批評者は確かにいた。三島由紀夫は初めだけだけど、フランス文学研究者の澁澤龍彦、ドイツ文学研究者の種村季弘、美術批評者のヨシダヨシエ、詩人の吉岡実など。皆、死んでしまった。この人たちも「過去の遺物」として忘れ去られている。そこがこの国の文化の問題でもある。
「70年」は若すぎる
現在でも活動している「暗黒舞踏」の研究者、批評者は何人かいるが数える程度である。力があっても、そもそも日本では演劇とダンスの学科を携える大学がほとんどない。つまり学問として認められていないといっても過言ではない。ショー的要素たっぷりの、ミュージカルやアイドルの振付は認められていても、芸術としては余りにも反体制的なのだ。
そして、譬え2019年が「舞踏70年」だとしても60年代の遺物として昭和の記憶に追い込まれていたとしても、たった70年である。学問として認められるには若すぎる。学問は慎重で、古代ギリシャから引き継がれているものが多い。話はズレルが、美術研究など実はない。美学は哲学から、美術史は歴史学から派生していて単独の美術研究は存在しない。
ズレタままだが、実は学問など近代に形成されたものが多い。哲学は紀元前だとしても歴史学、政治経済学、文化人類学などの人文系は近代に発生した問題と近代によって見出された過去の掘り起こしが中心になっている。物理学、宇宙学、生物学などの理系は確かに紀元前の発想を引き継いでいるが、近代になって発見された技術によって大きく変化した。
ともかく、暗黒舞踏はまだ「若い」ため、日本では研究の対象に成り切っていない。最も大切である、「暗黒舞踏は何か」といった基本的な定義がなされていないのが現状だ。「暗黒舞踏」は石井満隆が1971年にヨーロッパに亘り、大道芸のように踊りながら巡業したことを始まりに、多くの舞踏者達が世界中で公演を行い、受け入れ、知られるようになった。
日本人だけが知らない「BUTOH」
「暗黒舞踏」は「BUTOH」として知られるようになった。のワークショップ(公開稽古)に参加する外国人は圧倒的に多い。それで飯が食えるので、多くの舞踏者は海外へ「出稼ぎ」に出るか、帰ってこない。初期はヨーロッパが中心であったが、今日ではアジア、ロシア、アメリカと世界中でBUTOHは知られている。知らないのは日本人だけである。
この延長線上に、今日の外国の舞踏研究者達がいる。特にアメリカでは、日本文化研究が盛んである。研究方法はダンス専門ではない。カルチュラルスタディーズという、文化歴史研究の一環の場合が多い。カルチュラルスタディーズでは今起こったことも全てが異なり、研究の対象に成り得るのである。それ以外の学問もある。
海外の研究者は当時の日本の資料を探り、録画公演をみて、現存の舞踏者にインタビューし、文化研究として論文を発表する。現在行われている舞踏公演も、しっかり見ている海外の研究者達も沢山居る。研究者とは研究費や助成金が出ないとなかなか動かないが、よくやっている。日本の研究者は正直、負けている。そこに私も含まれている。
私は「暗黒舞踏」をダンスの領域に留めず、総合芸術であると考えている。しかしその発祥は、やはり日本が敗戦し、民主主義の国として復活を遂げようとしていた時期の、モダンダンスの領域から始まったと見ることが自然であると思ってきた。当時の「モダンダンス」とは富裕層の文化として、とてもお上品で美しいものであったに違いない。
権威に紛れた「おかしなダンサー」
暗黒舞踏を創出したのは、土方巽(1928-1986)であると言われている。土方巽は秋田県生まれ。戦時中は群馬県の飛行場に勤労動員される。1946年、秋田市にモダンダンス研究所を開いた増村克子(江口隆哉門下)に師事し、ドイツ系ノイエ・タンツを修得する。1947年に上京。画家の田中岑、池田龍雄と仲良くなり美術、舞踊、写真のアーティストを知る。
敗戦後、特にアヴァンギャルド系の文化人は直ぐに復活の狼煙を上げる。1947年の春か夏、〈世紀〉というグループが阿部公房を中心に、彼の東大医学部での友人赤塚徹宅で発足したという。一方、48年1月、花田清輝、岡本太郎らによる〈夜の会〉が始まり、この二つはメンバーの一部が重なるので、核になる〈アヴァンギャルド芸術研究会〉が始まった。
美術の世界では明治40(1907)年に、国が主催者として第一回が開催された文部省美術展覧会はその後、帝国美術展覧会、帝展改組、新文部省美術展覧会と混乱しながらも、1946年の春という早い時期に、日本美術展覧会として復活した。モダンダンスも同様、権威的な位置にいたのであろう。
この「モダンダンス」の世界に、おかしなダンサーがいた。「暗黒舞踏」を創出する前の時点で、土方巽は「シミーズのようなものを着て、自転車をこいでいた(原田)」大野一雄(1906-2010)を見ているのだ。また、「暗黒舞踏」創生以前に、土方巽は及川廣信(1925-)と逢っている。この及川は1954年に渡仏、56年にバレエとドゥクルーのマイムを持ち帰ってきた。(続く)
参考文献
川崎市岡本太郎美術館+慶應義塾大学アート・センター編『土方巽の舞踏』2003年
原田広美『舞踏大全』現代書館|2004年
池田龍雄『夢・現・記』現代企画室|1990年
多木浩二+藤枝晃雄監修『日本近現代美術史事典』東京書籍|2007年