中古レコードタチバナの記事はいずれ別に書きます(「中古レコードタチバナ」についてはこちら)。
全然中学にこない私を友達として認識してくれる友人が何人かいました。帰国子女で美人のマスダは、英国で聴いたポリスを私に紹介してくれました。おーちゃんは、お姉ちゃんの友達がバンドマンなので、新宿や渋谷のライブハウスに一緒に連れて行ってくれました。
ライブはとにかく「カッコよかった」
当時はアイドルになる前の、福岡出身、チェッカーズ系列のジャンプ系のバンドが盛んでした。ベルズ、ウェルズ、プライベーツ、イエッツなどです。今はライブ中でもアルコールですが、この頃は中学生だったので、ライブ後にラーメン食べて帰ったことを記憶しています。
初めて見るライブ、音楽性よりも「カッコいいなあ」という感想でした。
1980年代前半とはプログレとパンクが崩壊し、レッド・ツェッペリンが解散し、U2がシーンを引っ張りました。ライブハウスでは新しい音楽の予感がしました。Xをライブハウスで見た記憶がありますが、私は余り興味がありませんでした。ニューウエイブやハードコアが流行しても、私はフリーやピンク・フロイド、キング・クリムゾンなどに嵌っていました。
「主義」と「歴史」の消滅
それにしても1983年は革命の年でした。その象徴がイエス、マイルス・デイビス、マイケル・ジャクソンのレコードです。プログレッシブ・ロックの前線を走り続けていたイエスは11月に《90125》というアルバムを発表しました。サンプリングやシンセサイザーを多用し、これまで全く行わなかったキャッチなシングルの発表を連発しました。
しかしこの音の中にはプログレッシブ、ハード、パンク、ニュー・ウェイブを含むあらゆるロックのみならず、クラシック、現代音楽、ジャズ、ブルース、インド音楽など、様々な音の歴史と情報が圧縮され秘められています。つまり「主義」と「歴史」が消滅し、「時間」と「場所」すらも無関係となった、リミックスされた音楽となったのです。
それは同年発表されたマイルス・デイビスの《スター・ピープル》も同様です。ビバップ、ハードバップ、コードからモードへ、ロック、ファンクのクロスオーバーを経た本作は、単なるフュージョンに聴こえてはくるのだが、実はイエスと同様、マイルスは時代の要請に応えた、クロスオーバを超える新たな音楽であるということができるのでしょう。
聴覚の音楽から視覚の音楽へ
この年の12月、M・ジャクソンが《Thriller》からの7弾シングル《Thriller》のミュージックビデオを発表しました。映画と見間違える程の質の高さは、プロモーション・ビデオ(PV)の先駆的役割を果たし、追随するPVはテレビ番組で上映され、これまでの聴覚的なラジオ、レコードから、視覚的なビデオとしての展開期を迎えたのでした。
極め付けはフランキー・ゴーズ・ツゥ・ハリウッドの『リラックス』です。レッド・ツェッペリンは、1980年にドラムのジョン・ボーナムが急死して解散しました。『リラックス』はボーナムのドラム音をサンプリングして使用し、それを多くの人々は知ることなく、爆発的にヒットしました。死体を汚された想いなど、知る由もないのです。
このような時代下であっても、私はひたすら逆行していました。私を虜にしたのは、後期クリームと1974年頃のキング・クリムゾンの延々と続く即興でした。当時、レコードを手に入れるとカセットテープに落とし、ウォークマンで繰り返し聴きまくりました。イヤホンは常に爆音で、どの音も主体的であり、聴き分けることが最高に楽しかったのです。
そしてクリームのE・クラプトンではなくJ・ブルースのクラシック、ジャズ、ブルースが交錯する作曲に夢中になりました。CDがない当時、J・ブルースの過去版などレア盤すらない状態で、手に入れるのに一苦労しました。ともかく、電車賃を払って東京の中古レコード店を回るのでした。レア盤でないので、安く入手することができたのです。
J・ブルースが参加したアルバムも探し続けました。そこで見つけた衝撃的なレコードが、カーラ・ブレイの《エスカレーター・オーバー・ザ・ヒル》とキップ・ハンラハンの《デザイアー・デヴェロップス・アン・エッジ》でした。ブレイはジャズ「オペラ」であり、ハンラハンは映画監督G=L・ゴダールのテクニックを音楽に転用していたのでした。
J・ブルースの音楽性の幅広さは本当に素晴らしく、なかなか飽きることがなかったのですが、レコード会社の重圧、リスナーの理解のなさもあったのでしょう、J・ブルースの落し所がどうしても黒人ブルースになってしまうことが、私には耐えられなくなりました。新譜が面白くないのです。どこか遠慮があって。
J・ブルースの、1986年の来日公演にも行きました。憧れのジャックの、しかもライブを見て聴いて、やはりジャックの限界を感じてしまったのです。J・ブルースの限界というか、私の興味の問題なのです。J・ブルースであれば、もっとこれまで聴いたことのないような音楽を創造できると思い込んでしまったのですね。自分でやる気もしなかったのです。
私はその後、J・ブルースバンドに参加していた、クリス・スペイティングを追いかけました。そして自分が結構ジャズロックが好きなことが判明しました。しかし、このヨーロッパのジャズロックほどレアものはなく、未だにマイク・テイラーの録音が見付かりません。マニアックになると聴けないのも私を白けさせた原因でした。
「独自の表現」への渇望
更に、スペイティングがJ・ブルースと同様、結局はロカビリーに回帰してしまったことにもがっくりきました。超初期のソロ、様々なバンドのサポートの演奏には痺れていたのですが。ロックでもジャズでもない、独自の表現を探すことが私は好きなのだなということも気が付きました。単なるレゲエとの融合、では満足できないのです。
1985年頃は情報がないので兎に角、雑誌を捲っていました。そこで出会ってしまったのが、カルルハインツ・シュトックハウゼンとデレク・ベイリーでした。『ロッキンF』1980年7月号です。今でも持っています。グレてはいても、田舎から叔父さんらが来て上野まで送って小遣いを貰った帰り、秋葉原で買いました。
私はクラシックやジャズを聴き込む前に、既にシュトックハウゼンの「直観音楽」に夢中になっていたのでした。こうなるともう、総ての音楽が退屈になってしまいます。F・ザッパはレア盤でしたし、余り馬が合いませんでしたが、始めて買ったCDはザッパでした。インド音楽もまた、ラヴィ・シャンカール以外は値段が高くて追及出来ませんでした。
バンドを組み、そして
あれほど中学に行っていなかったのに奇跡的に高校へ入学。早速アルバイトを始め、おーちゃんたちとバンドを始めました。おーちゃんが作曲するオリジナルです。それだけで足りなかった私は、音楽雑誌に掲載されているメンバー募集、いわゆる「メンボ」から自分よりも10歳も上の人たちのバンドに入りました。
当時はバブル。高校生の私は年上バンドメンバー達と共に呑み、当時最新だったカラオケクラブへ行き、タクシー券で六本木から帰ってきました。しかしどのバンドも方向性はパンクやフォークの亜流です。「いかすバンド天国」が始まり、私は自分の前で踊っている女子のために音楽をやっているのではないと気付き、全てのバンドを辞めました。
高校へ行かず年上の友達と遊びまくって、更に恋愛関係も破綻し、絶望していた頃、マルコ・ベロッキオ監督の映画、《肉体の悪魔》を見ました。俺なんて大したことない、世の中悲惨だと思いました。この映画の音楽がずば抜けて心に響き、パンフレットに掲載されていた音楽家、カルロ・クリヴェッリを探したのですが、見付かりませんでした。(続く)