皆さま、このプロジェクトの発起人の、チャーリー・河村こと河村雅範です。
このサイトの雀の絵の表紙について、お話しさせていただこう、と思います。

この十年ばかりカメラマンと、最近二年は魚屋を主な生業としており、カメラマンとしては「チャーリー」という呼び名が商標の如くになっています。
「どうしてチャーリーなんですか?」と訊かれるたび、子供たちが小さい頃にパパの名前を「マチャーリ」と発音したとか、ペンネームで「茶色い・ブラウン」と称していたとか(これは漫画『スヌーピー』に登場する少年の名前を、ロンドン訛りっぽく発音して洒落たつもりになっていたのです)
それからベトナム戦争の時に米兵の間のスラングでベトコン(ベトナム共産党兵士)のことをチャーリーと呼んでいたこととか、由来となるエピソードはいくつもあったのですが、
何よりも日本人にも外国人にも覚えやすくて、親しみやすいので、自然に定着していったのだと思います。

普段はカメラマンとして、ご覧の写真のようなDVD作品を制作させていただいています。

僕がこのプロジェクトを起ち上げ、有志にお声掛けさせていただいたキッカケは、僕自身の「テクノロジーは人間を幸せにするか?」という積年の課題にありました。
最近「AIなどの新技術革命によって、十年後には今の仕事の50%はなくなる(つまり50%の人間は失業者になる)」というような巷説が囁かれ、多くの善良な普通の生活者、なかでも、先進国の中で唯一、自殺が死因のトップという状況にある我が国の若者たちが、自分の将来について曖昧な不安を感じています。
1953年生まれで今年65才になる僕がこうした世相に向き合った時に、この年令まで生きてきた自身の体験に基づき、また各方面の人的ネットワークを駆使することで、「本当のところは、どうなんだろう」という情報を、まず自分が知りたかったし、また、世間に向けて発信していきたい、と思い立ったのです。

IT社長からカメラマンへ

僕は1972年に県立岐阜高校を卒業して、東京大学文科三類に入学し、とりあえずボクシング部に入り、美学・美術史・考古学(野外実習)などを食い散らかしつつ駒場に六年間いて、結局は本郷の文学部フランス文学科に進み三年間在籍して退学しました。
その後、肉体労働から水商売まで、本当に様々な職業に携わりましたが、三十歳を過ぎた頃からプログラマーとしてITビジネスに関わるようになり、自分でソフトハウスを始め、他に電子部品の画像処理による検査装置メーカーと、ネットコマースの社長も務めました。

電子部品検査装置の開発時期が丁度、デジタルカメラの草創期であり、趣味としての写真・ビデオもこの頃からでしたが、ご縁を頂いて浅草サンバ・カーニバルやアムネスティ・コンサートの公式カメラマンになりました。

十年ほど前は日本RADという会社に在籍していて、東京国際フォーラムで、当時はSaaSと呼ばれていたクラウド・コンピューティングに関する講演もしました。その翌年位に、専業カメラマンに転身して、最初にジャケット写真をご覧いただいた音楽やダンス、アートパフォーマンスを撮影・作品化するようになり、さらに自分でも音楽やダンスのイベントを企画したり、映像作品の創作をするようになりました。
DVD以外にも、Youtubeには千本単位の映像を公開しています。

画家とバンドネオン奏者、二人の親友

さて、自己紹介が長くなってしまいましたが、このサイトのカバーについてのお話です。
河浦正紀は(カワウラ・マサノリ)とも読めるために、小中学生時代には県展入賞の常連で画才を認められていた僕(カワムラ・マサノリ)の筆名ではないか、と嬉しい誤解をいただいたこともあります。
河浦氏自身は、広島出身なのに熱烈な阪神ファンで、「赤の広場」広島市民球場で六甲おろしを歌うような豪快な男で、横浜市が行っている「ホームレスの人たちにアート作品を制作してもらって自立を助けよう」という事業の講師を務めたりもしています。

この雀の絵は、僕が彼から購入して所蔵しているものです。購入に際しては、何人かの知人・友人からの寄付も得ました。
ネット上で彼がこの作品を発表したとき、僕はとても気に入って感想を伝えましたが、その時には自分で所有することなど、考えていませんでした。

僕がカメラマンとして、自分でもダンスや音楽のイベントを企画していると書きましたが、それは例えば、このようなものです:

これはアルゼンチン・タンゴのダンス・ショーですが、通常は男女ペアで踊るのを、女性がソロで踊っています。この女性についても語るべきことはあるのですが、それはまたの機会にしておきます。
男性が弾いているアコーディオンのような楽器はバンドネオンという名前で、アコーディオンだとピアノの鍵盤にあたるところがボタン式になっていて、アルゼンチン・タンゴの代名詞とも言われています。
演奏者の男性は、僕と河浦氏とも仲の良い、僕と同い年の田辺義博という人物です。ダンサーがパートナーを持たずにソロで踊ることから「タンゴ・インデペンデント」と僕が名付けプロデュースしたイベントを、彼は初回から支えてくれていました。

去年の三月、5回目の「インデペンデント」を終えたあとの五月、田辺が急逝しました。
河浦は三月の後の田辺の最後になった二回のコンサートにも行き、何度か病院にお見舞いにも行っていて、僕がこの雀の絵を彼から手渡しで受け取るときに、その時の話もしてくれました。

「燕雀」の志

えーと、少し、整理して書きますね:

1.先ずは僕には、この雀が、ヨッちゃん(田辺)に見えてきて、欲しいと思ったのです。
彼の奥様にこの絵を見せたら、「そうだね、これヨッちゃんだね」と、声を詰まらせました。
彼女は俳優座の女優さんで、去年の秋に彼女が出演した俳優座公演のプログラムには、すでに故人ではあったけれど「音楽:田辺義博」というクレジットが書かれていて、客席の一つに彼のトレードマークだった帽子が置かれ、舞台を見守っていました。

2.雀は、一般人を象徴している存在のように思います。
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや(えんじゃくいずくんぞこうこくのこころざしをしらんや)」
これは、古代中国で最初の農民反乱を起こした人の言葉です。「小さな鳥どもに、大きな鳥の気持ちが分かるものか」という趣旨で、僕も若い頃はこの言葉を諳んじて大志や野望を抱いていました。
しかし、この二年間、近所のスーパーの魚屋の下働きの早朝バイトをやってみて、自分はどちらかと言えば「上から目線」で生きてきたのではないかな、と反省するようになりました。
大きな鳥には小さな鳥の気持ちが分かっているのかな、と今頃になって考えています。

3.不安に捉われている人たちの「本当のところはどうなんだろう」という疑問に対する情報の発信を象徴しているのが、水面の波紋だと思います。
僕が最初にこの作品を見て、波紋に感動して感想を書いた時、河浦が「そこだ!そこに一番、気持ちを込めたんだ、チャーリー、流石の眼力だ」みたいなことを言ってくれたような記憶があります。

以上、なんだかとりとめのないような気もするのですが、これが、僕がこの絵をカバーに選んだ経緯の物語なのです。