アートと関わりがなかったあなたへ

これまでこのサイトで「絵画|堀木勝富」、「彫刻|関直美」と書いてきた。何を言いたいのか一行も分からない、というメッセージも戴きました。有り難う御座います。正直にそう言って戴けるほうが、私としては勉強となる。ならばどうしたらもっと分かりやすい文章にすべきか。どのような対象を紹介すればいいのか。

私は何の為に、このような仕事をしているのか?

もっとメジャーなアーティストを紹介すれば金になる。しかし、世の中には真摯に自己と社会とに向き合い、金に関係なく人間の尊厳の本質を探って作品として世に問うアーティストが沢山いる。

それはアーティストでない人間でも一杯いるはずだ。捨てたものではない。しかし、少数である。

つまり彼らは余りにマイナーだ。

私はこれまで、そのような少数のアーティストと共に世の中と向き合うために、少数のアーティストとその関係者向けの、専門的な批評を書いてきた。だが今回、このような場を与えられたというチャンスを活かして、これまでアートと何の関わりを持たなかった方々に読んで貰えるよう、試行錯誤している。

いい写真って、何?

今回は本当に素晴らしい展覧会があったので、紹介する。もっと早く、初日に行って直ぐに記事にすればよかったが時間がなく、レビュー(展覧会終了後の記事)となってしまったことを御詫びする。まあ、プレビュー(展覧会の事前記事)が新聞、雑誌で溢れる今、レビューさえも貴重なのに、展覧会中の記事が載せられるこのwebは貴重だ。

今回は写真である。

え。それまた幅が広くて分かりにくい。ましてや今日、写真とは誰もがデジカメすら買わず、中学生、もしかしたら小学生ですらスマフォで撮影できるので、身近過ぎて分かりすぎる。

美女や綺麗な風景をピントばっちりで写したのがいい写真でしょ?Instagramでみたことがあるよ。

いや、それ、ちょっと違うんだ。

探せ、そして、出会え

我々は、広告写真を見慣れ過ぎている。

確かに1970-80年代の広告写真は凄かった。商品を説明するどころか全く関係のない凄まじいアート写真が用いられ、途轍もないインパクトがあった。多くの者がポスターを盗んで自分の部屋に貼った。

そのような時代を知る若者が減ってきた。こないだ学校でPARCOのポスターを見せたら、眩暈を起こした生徒がいた。

今日の広告は、ポスターよりもモニターが主流になってしまっている。

ポスターに比べてモニターは「発光」するので、余計目に入ってくる。広告として非常に有利である。1970年代のサイケデリックな色彩を用いずとも、ソフトながらも刺激的な色を演出できる。

広告用の写真は、人目に付きやすいことを前提にしている。

写真の素晴らしさとは、「綺麗」だけでは収まらない。

物事の本質を掴む写真は、人の心を感動させる。優れた写真に平伏すのではなく、優れた写真を我々が見出すのである。

それは芸術も一緒だ。

つまり芸術に触れ合うということは、愛する人や尊敬する人を探すことに等しい。それは自分が探さなければ、見付からないということだ。

写真だけでもこれだけ難しいのに、更に今回の写真の対象は舞台である。

舞台といえばミュージカルや演劇、少し遠くてオペラかなという感じだろうか。今回の写真展の対象は、レゲエ、ジャズなども含まれているが、暗黒舞踏、現代音楽、コンテンポラリー・ダンスと言った、いわゆる前衛である。

全然「綺麗」じゃない「芸術」がある

「暗黒舞踏」「前衛芸術」という言葉すら、耳にしたことがない方も多いのではないか。

世界的な戦争が一部の大国で終結し、200年に及ぶ「近代」がやっと人間の存在そのものを探求できるようになったのが、1950-70年代であった。それは文化の世界だけではなく、政治、経済、医学、化学、物理の急速な成長でもあった。

資本主義と社会主義のぶつかり合い、空輸による産業の発展、寿命は延びて病気は治療され、クローン人間さえも予告され、宇宙が膨張していることも発見された。

芸術の領域では、人間とは良い面と悪い面があるが、両方備えているから人間であって、その良し悪しとは実は恣意的であることに気が付いたので、人間全てを掘り下げるようになった。

だから「前衛芸術」とは、グロテスクだったりミジメだったりして全然「綺麗」ではなく、時には目を背けたくなるような作品も多々存在する。

常識や道徳、掟どころか法にさえ触れるようにも感じる。しかし倫理や美徳は時代と場所によって盛衰してしまうので、人間の本質を量るのに適していないのである。

実際「暗黒舞踏」と「前衛芸術」は今日、過去の遺物として扱われていることが、この現実を明らかにしているということが出来る。「暗黒舞踏」や「前衛芸術」は、影を潜めながら、今でも少数のアーティスト達が探求を続けている。そのようなアーティストの作品を撮り続けているのが、今回のカメラマン、高島史於である。

1968-笠井叡  ©高島史於

カメラマン・高島史於

高島史於(たかしま・ふみお)は1948年、東京生まれ。写真を撮り続けて50年。海外取材は146回を数える。

舞踏者・大野一雄や、現代音楽の神様・ジョン・ケージら、撮影したアーティストは数知れない。個展、グループ展、多数開催。高島の特徴は、メジャー、マイナーの枠を越え、優れたアーティストの本質を抉り出す点にある。

1986-ピナ・バウシュ  ©高島史於

今回展示された作品の点数は70点、作品はB-1、A-2、A-3サイズにプリントされた。撮影機材はニコンF, F-3, F-4, D-3S & D3とオリンパスOM-D EM-1 MarkⅡである。

このようなキャプションがあると、カメラをやっている人は近づきやすいのではないだろうか。カメラをやっていない人にとっては、切っ掛けになってくれると有難い。

1997-ビセンテ・サエス  ©高島史於

高島の展覧会の抱負を引用する。

「1968年、20才、日大・芸術学部写真学科3年次に、笠井叡独舞公演《稚児之草子》を撮影してから50年。舞踏、ダンス、現代音楽などあらゆるジャンルの舞台とかかわってきました。ピナ・バウシュ、浜田剛爾、トリシャ・ブラウン、エンヤ、渡辺貞夫、レゲエのアイスリーなど、舞台の魔術師たち60余名を展示」。

1998-1-ブランカ・リ  ©高島史於

ヌメヌメドロドロしているのが、人間だろ?

活動50年。気合が入っているではないか。

会場を見渡すと、確かに暗黒舞踏やコンテンポラリー・ダンスの写真が多い。肉体が蠢いている。

人間ではないみたい。ヌメヌメしている。

このヌメヌメ感こそが、人間の本質なのではないだろうか。人間とは実は、「綺麗」でも「華麗」でもない。もっとヌメヌメドロドロしている。

1970年代の革命感、1980年代のバブル感、1990年代のラグジュアリー、2000年代の空虚などが、アーティストの肉体と共に、見事に写し出されている。

写真とはその時代を切り取るのではあるのだが、なかなかそう、理想的に事が運ぶことはない。撮影する自己と撮影される対象とのバランスは、その時代に懸命に生きていなければ不可能だろう。

2007-百花繚乱  ©高島史於

アーティストの「眼」、カメラマンの「目」

高島の写真の特徴はそれだけではない。

何よりも重要なのは、写し出されているアーティスト達の「眼」である。

「目」は何かを見ているが、「眼」は心で思っている事柄が溢れ出てくる。アーティストが何を見ているのかではなく、何を思っているのかが、高島の写真によって焙り出されて来るのだ。

それは当然、撮影している高島の「目」でもある。

高島がその時何を考え、アーティストの作品に同様な「眼」で以て「視線」を投げかけたのかが、如実に浮かび上がってくる。

しかもそれがたまたま出来たのではなく、高島が構えて行っているのでもなく、高島の主張として50年以上も持続していることに意味があるのだ。

高島史於の名前を覚えていてくれ。展覧会があれば、直ぐに駆けつけて下さい!

それと共に、「暗黒舞踏」「前衛芸術」にも注意を払って欲しい。

これらは一部のマニアに向けられた、高尚な芸術ではなく、我々一般人のために存在しているのだから。芸術と触れ合うのは、友達になること以上に簡単なことなのだから。

©高島史於
©高島史於
©高島史於

<TOKYO SCENE 2018 高島史於舞台写真50周年展「1968~2018・舞台の魔術師たち」>

2018年7月5日(木)~11日(水)12:00~19:00

六本木・ストライプハウスギャラリー Mフロアー(入場無料・無休)