89歳、日本初個展

2018年7月5日(木)から「堀木勝富―月と未来・祖国への便り」が銀座・彩鳳堂で開催されている(11:00-18:00、8月9日まで。14、21、28日、日曜祝日休廊)。

ナゼこの展覧会を注目するのか。
堀木は1929年生まれ。トリノで健在。1969年に日本を飛び出してトリノに移り住んでから制作を開始した。89歳で、何と日本初個展なのだ。

 


彩鳳堂画廊

 

「堀木勝富―月と未来・祖国への頼り」展示風景(提供:彩鳳堂)

 

正確にはこの個展が開催される直前の6月27日(水)から7月3日(火)まで、東京・日本橋高島屋で開催されたグループ展「第4回 日本画の位相3+2」に参加し、三点の作品を出品している。主催はやはり彩鳳堂。現代美術の世界で問われるのは、作品の精神性である。卓越した画面に、美術のプロ達が圧倒された。

 

第4回 日本画の位相3+2 岡村桂三郎|北田克己|間島秀徳+堀木勝富|京都絵美

 

「日本画の位相3+2」とは、日本画というよりも先鋭的な現代美術アーティストである岡村桂三郎、北田克己、間島秀徳が「刺激し合い、競い合うことによって日本画の諸相を拡張するような展覧会を目指したい」。「毎年、技法分野を超えた二名の作家を招待し、本展の意義を共に探求することができれば幸いです」(フライヤ)という野心的な展覧会だ。

 

第一回はシベリア抑留の経験を作品化した宮崎進(1922-2018)、第二回は予科練・特攻隊の飛行士であり自由を描き続ける池田龍雄(1928-)、第三回は国内外で活動する福田美蘭(1963-)という、美術界では錚々たるメンバーが参加している。是非とも名前で検索してその偉業を確認して欲しい。

 

堀木勝富とは誰か?を問う前に、堀木を見出し、展覧会を開催した彩鳳堂の代表、本庄俊男とはどれだけの人物であるかを記す必要があるだろう。Googleで「本庄俊男」で検索すると、安倍首相、青柳文化庁長官、アーティスト草間彌生、現代美術コレクター高橋龍太郎と一緒に、総理官邸で一緒に映っているサイトがトップに出てくる。

 

Art Annual Online

 

本庄は画商歴50年、業界のトップであり、斬新な企画により時代を切り拓いてきた。有元利夫(1946-1985)を著名にしたのも、本庄である。その本庄が認め、これから力を入れていこうとするのが、堀木なのである。本庄に堀木を紹介したのは、私だ。今年の1月、本庄は直ぐにパリの仕事と共にトリノに駆け付け、決めた。出来る男は仕事が早い。

 

私と堀木が知り合ったのはFacebookで、2017年7月である。私がFacebookのWallに上げる家族の写真や展覧会評に、堀木は興味を持ったのであろう。私に画集『OLTRE IL VISIBILE E L’INVISIBILE』(Città di Tolmezzo/PARTY ZONE|2017)を送ってくれた。私はこの画集で、FBの写真で定かにはならなかった堀木の作品の感触を知った。

 

堀木勝富のFacebook

 

画集ではマチエール、テクスチャが明らかにならないとしても、堀木が描く世界観は、高い精神性に満ち、格調が高いことが理解できる。世界的な動向の中でも、少なくとも日本では見たことのない作品であることを知ったのだった。堀木が日本で展覧会を行った形跡はない。私は、堀木の作品を日本に紹介したいと願い続けたのだった。

画家に会いに:家族の旅

2018年3月。私は妻、1歳と5歳の男児という家族と共に、トリノ郊外に住む堀木の元へ向かった。堀木には23歳下のエルミニアという妻がいる。エルミニアはダンテなどのイタリア文学の研究者であり、イエール大学の博士課程に籍を置いていたこともあったそうだ。現在はトリノの大学で教えている。

 

エルミニアが、サンティア駅まで我々を迎えにきてくれた。エルミニアは30分ほど車を走らせ、アトリエ兼自宅まで我々を導いてくれた。遠くは隣国スイスの方角にアルプス山脈を臨み、近くは一面のキウイ畑。大きな庭には薪小屋があり、猫が戯れる。居宅は普通の家。アトリエは水平型サイロを改造したものだった。

 

堀木宅から近郊を臨む

 

堀木は初対面の我々を、まるでよく知っている友人や息子夫婦と再会するように、親密に受け入れてくれた。私の子供らは子供らで、まるで祖父や祖母に会うように、自然に堀木とエルミニアに接していた。それは私と妻もまた、同じことであった。我々は寝室を間借りし三泊四日、堀木宅に滞在した。

 

堀木宅と薪小屋

 

 

堀木は子供達と遊びながら、私との対話を始めた。それは私にとって聖人に会った神秘を覚えるものではなく、 堀木も日常で稀な日本人に懐かしみの視線を携えることも全くなく、ごくごく自然な人間の触れ合いだった。キッチンでシャンパンを呑み、アトリエに流れた。奥中央にある大型のイーゼルには、FBで見た100号超の大作《ULISSE》が架けてあった。

子供達と

 

堀木はいたって健康であった。日本語とイタリア語を使い分け、記憶もしっかりし、頭脳明晰だ。歩行も問題なく、近所に住む友人と毎朝散歩に出かけている。朝は珈琲のみだが、ランチとディナーもワインを呑みながら沢山食べる。私が隠し持ったウイスキーも、ストレートで呑んでいた。煙草も大好き。とても89歳の老人とは思えない。

 

キッチンでの乾杯

私と堀木は、専門的な美術談義を争うことはなかった。それは制作と観賞が、日常生活に溶け合っていることを端的に示している。エルミニア、私の妻、子供たちでさえも理解できる内容であろう。話は、アトリエで二人のとき、キッチンやレストランで食事をしながら家族を交えて、庭に椅子を出し大自然の只中でと、様々な状況で会話した。

 

1969年ブレラ国立美術学院に入学し、72年の卒業と共に先輩の展覧会に参加し活動を始める。80年代にアトリエが火事となり大多数の作品を消失、84年に大腸癌により死に掛けながらも回復。90年初頭、1969年以来、はじめて日本に訪れ、全てが変化していたことを認めたことなど、堀木の活動の中断の理由が明らかにもなったのであった。

アトリエ内の様子

 

イタリアに着いた堀木の初めの仕事はアルプスの山小屋のコックであった。次の仕事が葡萄の販売だったので、トリノの道は全て覚えたという。1990年代は、イタリア語と日本語の通訳の仕事もしていた。堀木は地道に仕事と制作活動を続けた。今でも謙虚だ。コレクター、一般の人々、素人こそが自分に様々なことを教えてくれるのだという。

社会との対峙

堀木は日本にいる頃から社会派であり、砂川闘争にも参加していた。1973年9月11日の、世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権をチリ軍が武力で覆したクーデターに衝撃を受け、初期作品を形成する。堀木はこの社会的事件を個人の出来事に還元し、作品に反映させ、探求を続けた。

 

堀木は自らの生の危機に、自己の過去の行動に懺悔の意識を顧みて、1980年代半ばに制作を再開したのではないだろうか。例えば1999年からの《ULISSE》シリーズは、ギリシャの古典文学者ホメーロスが記した『オデュッセイア』のことで、オデュッセイア=ユリシーズが地獄に向かう姿をモチーフにしている。

 

レストランにて

堀木の制作で重要なのは、これまで誰もしなかったことに図らずとも挑戦し、自らの道を切り拓く姿にある。それは現代美術を探求する者達にとっては当たり前のことなのかも知れないが、自己の決意を貫くアーティストは数少ない。堀木は全てを捨てて美術の聖地であるイタリアに居を構え、美術の本質を探っている。

チンピラと聖人

堀木は自らが聖人扱いされることと、作品が単に神秘的で美しいと思われることを嫌う。堀木は自らを「チンピラ」だという。人を傷つけたことがある者のみが、人の痛みを知る。しかしそれは人間として避けては通れない道であって、この困難な道を通った者が、聖人扱いされてしまうのは致し方ないことであろう。オデュッセイアにも臍がある。

 

《ULISSE》:第4回「日本画の位相3+2展」展示風景から

 

 

つい最近、私は自らが教えている学生に堀木の画集を見せて感想を聞いてみた。 作品は《ULISSE》である。「神」と鋭く答えた学生がいた。「犬のウンチ」と真顔で発言した学生もいた。学生は何と素直なのであろう。私もその両者、つまり聖と俗が堀木の作品にあると思う。人間は奇麗事では済まされない。是非とも展覧会を見て、確かめてほしい。それは自らの発見にも繋がる。

堀木宅近郊