マイナーだからこそ、未来につながる

暗黒舞踏、二回目だ。前回は暗黒舞踏を取り巻く環境や時代を追うことに終始したが、今回はいよいよ核心に迫る。暗黒舞踏は過去の遺物ではない。現代にもあり、未来にも生き続けるべき芸術なのだ。それが譬えマイナーでも。否、マイナーだからこそだ。私は前回「暗黒舞踏は定義されていない」と書いたが、例えば以下のような文献は存在する。

 

「暗黒舞踏 あんこくぶとう 土方巽と大野一雄が作り上げた、前衛的な身体表現。重心の低いガニ股など、西洋舞踊からかけ離れた土着的な動きを元に、独得の世界観を持つ。弟子の笠井叡(かさいあきら)らによって広められ、海外でもBUTOHとして認知される」(多木浩二+藤枝晃雄監修『日本近現代美術史事典』東京書籍|2007年)。

 

舞踏とは前衛的身体表現である。独特の世界観を持つ。何とも歯切れの悪い説明文だ。確かに舞踏を語るのは至難の業だ。私は、舞踏とは身体表現=舞踊、ダンス、パフォーマンスだけでは収まらないと考えているし、西洋舞踏も入っていると思う。土着と言っても土方が出身の秋田に着想を得て舞踏を制作したからとはいえ、日本の土着とは言い難い。

 

550頁の分厚い原田広美『舞踏大全』(現代書館|2004年)の「はじめに」を引用する。

「「舞踏」とは何か。この本で考察し、紹介したいと考えたのは、1959年、土方巽・演出、当時20歳(従来の舞踏伝説では19歳)だった大野慶人(よしと)・共演による『禁色(きんじき)』を契機に創始されたとされる「暗黒舞踏」に始まり、80年代には天児牛大(あまがつうしお)をリーダーとする「山海塾」や大野一雄らの活躍により、世界のBUTOH(舞踏のアルファベット綴り)へと羽ばたいた、日本の一ダンス(舞踊)の系譜についてである」。

原田はここで、舞踏を「日本の一ダンス(舞踊)の系譜」と位置づけている。原田は研究者であるので、暗黒舞踏が当初、暗黒「舞踊」であることを知っていた。

 

土方巽は『禁色』の際には何も名乗っていなかった。63年の自らのグループを「暗黒舞踊派」、66年に「暗黒舞踏派」、70年には「燔犠大踏鑑」になる。つまり、土方にとって「暗黒舞踏派」という言葉はあまり重要ではなかった。弟子達が次々に独立し、自らのグループを牽引し、海外にまで活動を広げたので、人々は総称として「暗黒舞踏」と呼んだ。

 

麿赤兒(まろ あかじ|1943-)は1964年に土方に師事、1972年に「大駱駝鑑」に旗揚げ、1982年にアメリカン・ダンスフェスティバル、アヴィヨン・ダンスフェスティバルに参加、現在に至る。カルカッタ池田(1947-)は1974年に「アリドーネの会」を結成、室伏鴻(1947-2015)と共に1978年にパリへ進出した。

 

天児牛大(1949-)は1975年に「山海塾」を結成、1980年のアヴィニョン・フェスティバルに参加する(ここまでの年譜は全て原田の著作から引用)。現在、世界で最も知られているBUTOHではないだろうか。PARCOのテレビコマーシャルに出ていたのも、恐らく山海塾であろう。日本でも「舞踏」を印象付けたのは、山海塾と私は感じている。

 

私が言いたいことは、つまり「舞踏」とは土方巽と大野一雄が「創出」したのは確かかも知れないが、二人の手から離れて「舞踏」というイメージだけが先行し、その本質は何処かに置き去りにされてしまっているのではないかといった危惧である。無論、私は「大駱駝鑑」「アリドーネの会」「山海塾」を批難しない。それぞれのよさがあろう。

 

「舞踏」を育てた芸術者たちの出会い

此処で「君は舞踏を知っているか!?(1.入門編)」の最後のほうに戻る。敗戦後の芸術アヴァンギャルド運動は、花田清輝(文学)と岡本太郎(美術)が中心となり、ジャンルを分断することなく、芸術の本質を探っていた。その流れに土方も乗った。「東京で23年の秋不思議な舞台に出合った。シミーズをつけた男がこぼれる程の叙情味を湛えて踊る」(土方『美貌の青空』)大野に出会う。

 

及川廣信は、アントナン・アルトーという凄まじい芸術者の軌跡を探る為にフランスを訪れていた。バレエ、マイムだけではなく、文学、演劇、音楽、美術という芸術だけではなく、歴史学、実存哲学、精神、生理、心、魂、肉体、無意識、植物生理学、差異人類学、電子計算機、神経系シナプス伝導にまで思想は及び、尚且つ、東洋医学/思想にまで至る。

 

土方巽は1957年、及川が主宰する《バレエ東京旗揚げ公演》(第一生命ホール)の〈森の歌〉に出演している。及川は「その肉体性の奪還」(『肉体言語』9|1979年|七月堂)《禁色》の成功を振り返る。「59年の5月まで、私にしろ、若松美黄にしろ、土方巽にしろ、いわゆる舞踊界の権威者と批評家たちに爪はじきされていた」。

 

もう一人、舞踏と深く関係を持つ戦闘的なアーティストがいる。池田龍雄(1928-)である。先日まで練馬区立美術館で展覧会が開催されていたほど、今日でも旺盛に活動をしている。池田は土方と澁澤龍彦と同い年生まれ、前述の通り、1947年に土方と逢っているが、実は更に衝撃的な出会いをしていたのである。

 

「やがてわたしは積極的に、動く人体の―それもあらゆる形に動く姿態を求めて―通学帰途に東横線は都立高校駅(現都立大学駅)で途中下車することになった。かねて電車の車窓からその駅近くに「江口・宮バレエ研究所」なる看板をかかげた建物があるのを見ており、その日決意して友人と一緒にいってみたのである。(…)「動かぬモデルではない、動く肉体のはつらつとした美しさ、一瞬のポーズに見える流動的な無数の線・リズム、それらは私の感性を興奮させる」。(…)とりわけ、江口氏に代わって指導していた一人の痩身の男の身のこなしは魅力的で、ついその動きに目を奪われがちだったが、その人は実は、80路を超えた今もなお華麗に踊り続けている国際的な舞踏家大野一雄氏だった」。

 

池田龍雄『夢・現・記』(現代企画室|1990年)に記された、1948年当時の日記を元にした回想だ。動かぬモデルを求めること自体、新しい芸術を予感させる。池田の作品は絵画が中心だが、オブジェ、パフォーマンス、ポスターと様々に展開している。人脈も半端なく、舞踏、演劇、文学、映画、デザイン、音楽と、あらゆる芸術に通じている。

 

「暗黒舞踏」は「発見」されるもの

土方は「暗黒舞踏」を「創出」する前に、思想者の及川、劇薬の大野、数々のモダンダンサー、池田を筆頭とした美術者達に回り逢っていたのだ。そして土方は「暗黒舞踏」という名前に拘っていなかった。すると「暗黒舞踏」とは人類が産まれた段階、もしかしてそれ以前から存在していて、土方が「発見」したのではあるまいか。

 

その為、未だに定義することが出来ない。ゼロ次元の加藤好弘(1936-2018)が、舞踏と日本中世の婆娑羅(バサラ)との関連性を話していたことが何となく耳に残っている。私は首くくり栲象(1947-2018)と「舞踏とは日本語ですね」と話し合ったことがある。本来の舞踏は教示ではなく私淑だ。自分が舞踏者であると思えば誰でもなれる。

 

だからこそ、古今東西のあらゆる思想を知り、様々な角度から舞踏を「発見」する努力が必要である。舞踏は今も生きている。私は1970年代、大野一雄に薫陶を受けた上杉満代と、8月7日に六本木・ストライプハウスギャラリーで対談した(TOKYO SCENE委員会+ダンスワーク舎主宰)。今日、最強の舞踏者はこの上杉と小林嵯峨である。

 

上杉満代とのトーク ©玉内公一

 

上杉もまた及川や池田、土方同様、ありとあらゆる芸術を学び、大野と同じく「70歳に近づき、やっと舞踏の手応えを感じることができてきたが、まだまだ至らない」と話す。暗黒舞踏はテクニックや体力ではない。思想なのだ。どうでしょう、舞踏が見たくなってきましたか?次回は実際の暗黒舞踏公演評をお伝え致します!(続く)