舞踏の「狭き門」への招待

今回は、近日行われた舞踏公演を幾つか見てみよう。実は舞踏とは気軽に、簡単に見ることは出来ない。現代美術と同様、複雑な現代を表わしているので、広い知識と経験が不可欠となる。しかし、舞踏は本物の現代美術と似ていて、あらゆる学問を排除して、一発みればすぐ分かるという利点もある。そのコツをここに書ければと思う。

 

 

小林嵯峨 5月18日|練馬区立美術館

まずは小林嵯峨だ。嵯峨は1946年生まれ、69年に土方巽に師事、75年に独立、今日まで活動を続けている。

嵯峨は土方の高弟と言われているが、上記のように6年しか土方の元におらず、その後の43年間の自らの活動により、舞踏を追求し続けている。私は嵯峨とは2004年辺りからの付き合いだが、公演が終わると必ず「どうだった」と聞いてくる。

小林嵯峨1 撮影:小野塚誠

自信がないのではなく、常に、謙虚に「追求」を続けているのだ。一番のベテランのはずなのに、この姿勢が凄い…。

嵯峨は昨年凡そ40年ぶりに京都・西部講堂で公演を行い、今年は旧友・和栗由紀夫の追悼も舞った。ここで取り上げるのは5月18日の『戦後美術の現在形 池田龍雄展―楕円幻想』(練馬区立美術館 2018年4月26日-6月17日)の公演だ。

小林嵯峨2 撮影:小野塚誠

 

画家の池田龍雄は1928年生まれ。日本敗戦後アヴァンギャルドの第一人者で、「芸術は爆発だ!」の岡本太郎とも仲が良かった。土方巽が上京した頃知り合っているので、嵯峨は土方に師事した早い時期から池田と会っている。嵯峨と池田の関係は続き、池田は個展の際に、度々嵯峨に舞踏を依頼する。以下は、2010年の私の記事である。

 

http://www.art-critic.org/2013/04/blog-post.html

 

池田の絵画と嵯峨の舞踏、最高のコラボレーションである。

今回、嵯峨は池田が1973年から1990年まで続けた《ブラーフマン》シリーズの前で舞った。池田の《ブラーフマン》シリーズは時間と空間の歪みや捩れをテーマにしている。嵯峨の舞踏は正にこれに応え、作品と嵯峨が一体となり、美術館の時空が変容した。

小林嵯峨と池田龍雄 撮影:小野塚誠

嵯峨が追求する暗黒舞踏とはダンスとしてだけではなく、このように美術といった他の芸術と対応する。嵯峨は、現代音楽や映像ともコラボレーションしたことがある。無論、土方もコラボレーションは多岐に亘って展開したが、嵯峨はそれを踏襲するのではなく、また別の形として表わしたのである。

12月1、2日に中野で公演があるので是非!

 

https://www.facebook.com/events/298465957642338/

http://www.studioterpsichore.com/

 

 

 

無国籍舞踏會 5月4, 5, 6日|シアター・バビロンの流れのほとりにて

シアター企画の舞踏フェスティバル。副題に「いま、舞踏とは?」と明確に記されている。

シアター主宰者で劇団阿彌も率いる岡村洋次郎という男が半端ではない。元々は土方巽のカンパニーに入ろうとしたのだが、土方に「君は演劇が向いている」と指南され、実際に演劇を続けているのだ。土方にそう言わせた程、岡村は独自の発想を持っている。

 

岡村は徹底的に、闇と死を探っている

今回、岡村は全ての公演の「演出」を行った。各人が用意した舞踏に対して、照明、立ち位置、間合いなど、更に良くなるようにアドヴァイスした。このような演出は、実はあらゆる舞台に不可欠なのである。黒澤明が世に認められたのは、実は多くの「演出」のおかげなのだ。

 

今回出演したのはAudrey Eisenauer(フランス)、石本華江(東京)、Batarita(ハンガリー)、南阿豆(東京)、今豹子(京都)である。フェスティバルに「国際」がつかないことは、海外での「BUTOH」が最早当たり前になっていることを示している。しかしこのままでいいのかを問うのが、このフェスティバルの主題であろう。

 

ここでは、石本と今の公演を取り上げる。

石本は『Inventory of My Life』と題して、師である昨年10月22日に急死した和栗由紀夫に問いかける。舞踏とは何かと。客椅子に糸が結び付けられ、舞台の石本に集結する。石本は舞踏、映像、言葉によって死者の国にいる和栗に話しかけ続ける。石本も死んだらどうなるのか。それは誰も知らない。

石本華江 撮影:Aleksandr Sasha Drozd

 

今豹子の『闇の艶―序―』は正に闇の中で蠢く。奥、手前、右、左と、まるで炎のように揺らめき、豹子に照明が投じられれば豹子はスポットから外れていく。重いピアノ曲に豹子は床を見詰める。床の中に沈んでいくように見える。

京都で見た際には天空へ向かう印象だったが、今回は岡村の演出により炎が吹き消されたような感触を受けた。

今豹子1 撮影:安田敬

今豹子は、関西で積極的に活動している。関西の方は勿論、関西に赴く際には是非ともチェック願いたい。

 

http://imakiraza.wixsite.com/kirabutoh/blank?fbclid=IwAR0sNHbEbPmR3KT6F3WsB-oXmoKTWPRW5nrzxcn3MfG_AJwaPbzlMQIOKmg

 

 

かぐや avec アインシュタイン 7月14日|シアターΧ

このテーマは「第13回シアターΧ国際舞台芸術祭2018」の一環である。この日出演したティツィアナ・ロンゴと近藤基弥は大野一雄舞踏研究所で大野慶人に、居上紗笈は及川廣信に師事した。ティツィアナと近藤はドイツに拠点を構え、居上は既にベテランの領域に達している。三者とも従来の舞踏の印象を一新している。

 

ティツィアナは、新聞紙を用いた大胆な舞台美術が展開している。このインスタレーションとティツィアナは、一体になりながらも離れていく。新聞紙が自己の皮膚のようにめくれていく。ティツィアナが、現世と常世を行き来しているように見える。このように、物質感と生命感を、ティツィアナは舞踏として表わしたのである。

 

ティツィアナ・ロンゴとインスタレーション 撮影:加藤英弘

 

近藤は下半身と顔のみを隠して、奇怪な動きをする。頭が螺髪のように盛り上がっているので、仏像が動いているように見える。

近藤は横たわる。立ち上がる。横たわっているのに立っているように見える。立っているのに横臥しているように見える。仏陀の涅槃という印象よりも、近藤は重力を無化しているように感じるのである。

寝転がって踊る近藤基弥 撮影:加藤英弘

 

居上は、ヒグマ春夫の映像とコラボレーションした。ヒグマが最近主題としている、現在の日本で失われた日本の農具の在り方と行方の映像が、舞台後方に映し出される。

CG加工された映像は、複雑な動きをする。その中で居上は本当に微細な動きをしているのに、遠くからそれを感じることができるのだ。これは、及川のアチチュードのテクニックである。

居上紗笈とヒグマ春夫の映像 撮影:加藤英弘

 

 

劇団態変 第68回公演 ニライカナイ 11月4日|座・高円寺1

劇団態変は「主宰・金滿里により1983年に大阪を拠点に創設され、身体障害者にしか演じられない身体表現を追究するパフォーマンスグループである」(公式WEBサイトより)。

金は大野一雄と接触があった。今回の公演は2年前の相模原やまゆり園惨殺事件を主題としている。私は15年前から舞踏を見ているのに、態変の公演は初で楽しみにしていたが、50分も遅刻した。

そのため、恐らく11あるシーンの中の最後の「遥か向こうから」しか見ることが出来なかったので、公演の全体評を書くことができずに申し訳ない。

しかしこの30分という短い時間に、深い感動があった。腕も脚もない出演者が頭と肩のみで演じたことではない。舞台から魂そのものが発せられていたからであった。

撮影:池上直哉

 

撮影:池上直哉

 

撮影:池上直哉

 

舞踏に、触れに行け

このように舞踏を名乗るもの、舞踏を名乗っていなくとも関わりがあるもの、舞踏から始まり舞踏から離れたもの、舞踏に近いが舞踏ではないものと、様々な身体表現が存在する。しかもその公演は、都内で、今も行われているのだ。

まずはテルプシコール、シアターΧなど、劇場のWEBサイトから探すといいだろう。気軽に触れて欲しい。